第37章 この素晴らしき世界〔仁王雅治〕
「オネーサン、薬の営業の人じゃろ?」
「そ、そうだけど…」
「あの先生、テニス好きじゃよ」
脈絡のない唐突な台詞に「テニス?」と聞き返すと、ニノくんは「そ、テニス」と言いながら座っていた車止めからぴょんと飛び降りて、伸びをしながら立ち上がった。
さっきはすらりと華奢に見えたけれど、近くに来るとシャツ越しにでも鍛えているのがよくわかる。
「ま、騙されたと思って、次来たときはテニスの話振ってみんしゃい。絶対うまくいくぜよ」
無造作にアスファルトに放ってあったテニスバッグに手をかけるのを、私はぼんやりと見ていた。
見ず知らずの少年から、私は営業のヒントをもらったということなのだろうか。
予想もしていなかった展開に、頭がついていかない。
ああ、でもそういえばさっき、彼は出がけに先生に手を振っていたんだった。
少なくとも私よりもあの先生に食い込んでいるようだし、正直藁をも掴みたい心境ではある。
「俺はそこの立海でテニスやっちょるき」
ひょいと私の後ろ側、病院の裏手の方を指差して、ニノくんは言った。
確か近くにそんな名前の大きな学校があったっけ。
「営業、がんばりんしゃい」
そう言い置いたニノくんは、重たそうなテニスバッグを軽々と背負って、私に背を向けて歩き出した。
その後ろ姿を呆然と見ていたら、彼はさっき診察室を出たときと同じように、振り向きもしないで、背中越しにひらひらと手を振った。
まるで私が彼の後ろ姿を見送っているのを──正確に言えば目が離せなくなっているのを、初めからわかっていたみたいに。
「テニス、か…」
彼はもしかして、私にその情報を教えるためだけに、ここで待ってくれていたのだろうか。
この暑い中?
いや、まさか…からかわれただけかもしれないし。
ため息まじりに車のボンネットに手をかけたら、火傷しそうなくらいに熱かった。