第36章 さよならを言うのなら〔跡部景吾〕
やっと状況を飲み込んだ私の頬を伝った涙は、悲しみではなくて、嬉しさと安堵のそれだ。
小さな子どもをあやすように、景吾は優しい手つきで私の背中をさすってくれる。
「ここ二か月は引き継ぎだなんだって忙しくて、ろくに電話もできなくて悪かった。お前からも電話ねえから、もう俺は振られたのかと思ってたんだが…」
「そんな、わけ…ない」
「そうか。ならよかった」
嗚咽で乱れた呼吸で、途切れ途切れにそう伝えると、景吾は満足そうに笑って、私の頭を撫でて。
上着の内ポケットから何かを取り出して、私の手に握らせた。
「今回の土産はこれだ、受け取ってくれるか」
「え…これ」
「新居の鍵だ。…一緒に住まねえか」
驚いて見上げると、いつも歯が浮くような恥ずかしい台詞を易々と言ってのけるはずの景吾が、珍しく赤くなっていて。
離れていても同じ気持ちでいてくれたのだと思ったら、涙が後から後から溢れてきて止まらなくなって、うん、と頷くのが精一杯だった。
手のひらの上の小さな金属片が、霞んで見えなくなる。
この感情を表現する言葉も行動も見つからなくて泣き続ける私に、景吾が言った。
「なあ、こういうとき、何て言うか教えてやるよ」