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短編集【庭球】

第36章 さよならを言うのなら〔跡部景吾〕


キッチンへ戻って、ケトルを再び火にかけた。
カウンター越しに、ソファに腰掛けて目を閉じた景吾をそっと見遣る。

自分ではそれなりに満足している1LDKの部屋だけれど、景吾にはなんとも不釣り合いだ。
ここには何度も来ているのに、そんなことを思ったのは初めてだった。

すぐに沸いたお湯で紅茶を淹れる。
トレイに二人分を載せてテーブルに運ぶと、景吾は「ああ、悪いな」と言った。
隣に腰掛けてカップを持つと、ふわりと景吾らしい華やかな香りが立ち上ってきた。
別れたらもうこの紅茶は飲めないなと思うと、苦笑が漏れた。


「相変わらず忙しい?」
「ああ。そっちこそ忙しいんだろ」
「ん、まあ、ね」
「無理しすぎるなよ」


優しく微笑む景吾に、ありがと、と頷いた。
忙しい日々に弱気になるのは、景吾がいないからなのかもしれない。

すぐに出ていくつもりなのか、景吾はジャケットを羽織ったままだった。
気持ちが離れてしまっていれば、別れを告げるのも簡単なことなのだろうけれど。
私はまだ、この人のことがこんなにも好きで、こんなにも触れたくて、離れたくなくて。
そして、こんなにも同じ気持ちでいてくれたらいいのにと願っている。


景吾が視線をゆっくりと動かした。
覚悟はしていたはずなのに、その口から別れが切り出されるのが怖くて、私は頭の中で必死に話題を探す。


「次はいつ発つの?」


声が少し裏返ったのは、涙をこらえたから。
紅茶を一口飲んで、喉の奥に力を込めて、まだ泣いちゃだめだと自分に言い聞かせる。


「行かねえよ。渚が望むなら、だけどな」
「…え?」
「日本に帰って来られることになった。待たせたな」
「え…え、嘘」
「ハッ、嘘なわけねえだろ」


薄く笑った景吾は、ティーカップをテーブルに置いて、その手で私の肩をふわりと抱いた。
あたたかい腕の中、額を肩口に預けて、目を閉じる。
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