第36章 さよならを言うのなら〔跡部景吾〕
数か月ぶりに会う景吾は、その表情も声もスーツも、長時間のフライトのせいか少しくたびれているようだった。
靴を脱いだ景吾にスリッパを勧めて、リビングへ向かおうとした瞬間。
「…会いたかった」
抱きすくめられる。
骨がきしむほど、強く。
私も、と小さく言うと、腕の力がさらに強められた。
枯れた心に水が満ちていくように。
ああ、私が欲しかったのは、この人のぬくもりだ。
さよならをしようと思っていたはずなのに。
仕事で疲れ切っている身体はとてつもなく重いのに。
そんなことがすべて、どこか遠くのことのようで。
この体温が、息苦しさが、懐かしいにおいが、感じる鼓動が。
目の前に景吾がいて抱きしめられている、その事実だけが、今の私のすべてだ。
いつまでそうしていたのか、景吾が「まだ濡れてんじゃねーか」と私の髪を梳いた。
「ごめん、スーツまで濡れちゃうね」と謝ると、「気にすんな」なんて頭をぽんぽんと撫でられて、こうやって触れられるのを懐かしいと思う気持ちと、最後かもしれないと思う気持ちがぐちゃぐちゃに入り混じった。
泣きそうになっているのを景吾はきっとお見通しだろうけれど、私は強引に笑ってみせた。
早く髪を乾かせと繰り返す景吾をリビングへ通して、洗面所で手早くドライヤーをかける。
温風の熱を感じながら、手ぶらだったな、と思った。
景吾がこうして空港からこの部屋へ来るときは、少なくともその日だけはそのまま泊まっていくのが常だったから、いつもバッグなりキャリーケースなりを持っていたのに。
なかなか会えない埋め合わせのつもりなのか、お土産もいろいろ持ってきてくれていたのに。
ああ、景吾も別れ話をしに来たのかもしれない。