第36章 さよならを言うのなら〔跡部景吾〕
*社会人設定
週末の夜、枕元で携帯が震えて飛び起きた。
寝起きの霞んだ目のまま、今日の仕事に不手際があったのかと内臓が縮む思いで電話に出る。
「お疲れさまです」と言う暇もなく、同僚は呼ぶはずのない下の名前が、電話口から聞こえた。
「渚か」
「…え、っと」
「寝てたか、悪りい」
聞き間違えるはずもない、恋人の声だった。
「あと三十分でそっちに着く」
「え…?」
脳の回路を無理やりこじ開けて、その言葉を理解しようと試みる。
豆電球の薄明かりに目を凝らして時計を確認すると、針は午前三時を指していた。
電話の向こうに薄く聞こえてくる雑音は、おそらく車で高速を飛ばす音。
空港から私の部屋まで、車の少ないこの時間なら三十分だ。
さしずめプライベートジェットで海外から帰ってきて、運転手つきの高級車を走らせているといったところだろうか。
「じゃ、後でな」
私の返答を待たずに切れた電話を握りしめて、やたらと早く打つ胸の音を感じながら。
はたと、帰ってきてそのままベッドにダイブしてしまったことに気がつく。
お酒を飲んだわけでもないのに、コートもジャケットもソファに放り出したまま。
当然メイクもそのままで、なんともいえない独特の不快感。
しまった、またやってしまった。
景吾が来る前に、シャワーくらい浴びなくちゃ。
ため息を吐く間もなく、ばたばたとバスルームへ向かった。