第29章 時計じかけの愛〔手塚国光〕
沸かしていたお湯でコーヒーを三人分淹れて、ソファで話し込む二人の元へ運ぶ。
「お疲れさまです、ご活躍は拝見してます、手塚選手」と言いながら、テーブルへそっとコーヒーを置いた。
手が震えないように、細心の注意を払って。
顔を見てしまったら感情が溢れてしまうかもしれないと思ったから、自分の腕時計だけを見ながら。
「どうも、お気遣いいただきすみません」
「本当、こんな年末…」
懐かしいテノールに続いて、大和先生がきっとまた私に謝ろうとしてくれただろう瞬間、先生の携帯がけたたましい音で鳴った。
焦って飛びつくように電話に出た大和先生は「えっ、本当ですか!? 行きます行きます、すぐ行きますから」なんて言いながら血相を変えて立ち上がって、転びそうになりながら自分のデスクまで走っていく。
ただ事ではなさそうな雰囲気に、私も国光も、何も言えずに見守るしかない。
通話を終えたのを見計らって「大丈夫ですか」と声をかけると、大和先生は申し訳なさそうに、けれどとても嬉しそうに言った。
「妻がね、産気づいたらしくて」
「えっ! それはすぐ行かなきゃ」
「ええ、いいですか?」
「もちろんです! あとはやっておきますから」
私と話しながらばたばたと準備を整えた大和先生は、嵐のように帰っていって。
ドアのところまで見送ってはたと気がつくと、職員室に国光と二人きりになっていた。
どうしよう、なんてもうどうしようもないことを考えていたら、ソファから中途半端に腰を浮かせてこちらを振り返った国光が、不意にゆっくり口を開いた。
「人違いなら申し訳ないんだが…、渚、か…?」
それは、付き合っていた頃に呼ばれていた名前。
凜とした声で呼ばれるのが、大好きだった。
国光から呼んでもらうと、自分の名前が世界でたった一つの大切なものになったような気がしたから。