第3章 HERO〔切原赤也〕
え、と発した声が、驚きからなのかかすれて、うわずった。
まさか、きっと都合のいい聞き間違いだ。
切原くんが、そんなこと。
「いや、嫌なら全然いーんだけどさ…女子が濡れて帰るの、よくねーだろ。ほら、風邪、引くかもしんねーし」
切原くんは人差し指で頬を掻きながら、言葉を繋ぐ。
「…切原くんこそ、いいの?」
「俺はいーの」
「じゃあ、お願いしちゃっていい?」
「よし、制服に着替えてくっから、ちょっと待ってろよ!」
超速で着替えるから、と言い残した切原くんはものすごいスピードで校舎の中を走っていって。
あんまり速いから「ありがとう、急がなくて大丈夫だから」と後ろ姿にかけた声も、彼には追いつけないかもしれないと思った。
ずいぶん遠くから「赤也ァ! 廊下は走るなと言ったろう、たるんどる!」と怒鳴り声が聞こえてきて、やっぱり私の声は届いていなかったなと笑ってしまう。
切原くんはいつも、クラスの中心にいる。
勉強は決して得意ではなさそうだけれど、授業中にうとうとして先生に怒られたり、先生に突っかかってはあしらわれてむくれたりして、クラスの雰囲気をぱっと変えてしまう。
体育の授業でもとても目立つし、球技大会では何をやらせてもヒーローで。
彼を見ると自然と笑顔になっている自分に気がついてからは、時折話す機会がとても嬉しくて、貴重なものになった。
その切原くんと、いわゆる相合傘、なんて。
それも彼の方から提案してくれるなんて。
いや、私には誘う勇気なんてこれっぽっちもないのだけれど。
髪を整えておこうと手鏡を見ると、顔が自分でも驚くほど赤くなっていて。
三十分も一緒にいたら心臓が飛び出してきてしまわないか、心配になった。
「悪ぃ、待たせちまって」
ほんの数分で、切原くんが着替えて戻ってきた。
「ううん。本当に超速だったからびっくりした」と言ったら、切原くんは「へへ、さすが俺」なんて自画自賛するから、二人して笑って。
ラケットバッグからは傘の柄だけがにょきりと飛び出していたのだけれど、切原くんはバッグを背負ったまま、器用に傘だけをするんと取り出した。
傘の開く音が響いて、身体中を一気に緊張が駆け巡る。
「よし、行くか」
「ありがとう。お願い、します」
傘をひょい、と持ち上げてくれた切原くんの隣に、小さく頭を下げて滑り込んだ。