第8章 桜の精
初夏と呼ぶにはまだ少し早い6月の前半のある日、彼女は裸足で桜の下に座り込んでいた。
ソックスを履いていないだけで、ひどく眩しく見えた。
いつになく、心ここに在らずという感じで遠くを見つめる姿は今にも消えてしまいそうだった。
「こんにちは」
一応挨拶をすると、視線だけ動かしこちらを見て、また遠くを見つめる。
小さくこんにちはと聞こえて見やると、いつも無表情な彼女が何かを話そうとしているのに気付いた。
話を聞こうといつもの様に隣に腰を下ろすと、彼女は消えいりそうな声で「あなた、テニス部の人なのね」と言った。
ろくに言葉も交わさず、まして自己紹介なんてしていなかったから、本当に驚いた。
「ああ、すまない、隠していたわけじゃないんだが」
「いいの」
遮る様に言われ、黙る。
「私は…」
次の言葉は出てこなかった。
言いたくないのなら構わない。
「俺は、君のことが好きだ…」
言ってから、思わず立ち上がった。
「あ、違…いや、違わないんだが、今そんなことを言うつもりはなかったんだ」
言い訳をするようになってしまい、情けなさで我ながらみっともない程おろおろとしてしまった。
彼女を見ると、ぽかんとした顔をして、そのあと噴き出すように口元を手で押さえ笑った。初めて見る笑顔。
「ふ…ふふ、あはは」
彼女はひとしきり笑うと、ハンカチを取り出し、目尻の涙を拭いた。
ポロリと零した告白は、彼女の笑いに消えてしまった。
「もしかして、桜の精の噂、知らない?」
「噂?」
桜の精という言葉にどきりとしたが、噂に心当たりはなかった。
「この桜の下で告白すると、桜の精が叶えてくれるんだって」
今まで見たことがなかったふわりとした笑顔で彼女が笑う。目を離すと消えてしまいそうだ。
「私、ここで告白されたのは初めて」
噂も知らなかったのに、告白してしまった事が恥ずかしくなる。
でももう後には引けない。
「俺は、君が桜の精だと思っていた」
「え?」
「桜の精に見えたんだ。初めて君を見たときに。名前も知らない君に好きだというのは可笑しいかもしれないが、好きだ。」
「私、見た目より大人しくないし、性格もあまり良くないわよ?」
「ああ」
興味津々とばかりに身を乗り出す桜の精。