第19章 幻怪(R18:月島蛍)
「また来てくれる?」
電卓を弾きながら、彼が問うた。
表示されたカット代。
数枚の紙幣を財布から取りだして、革製の黒いキャッシュトレイに乗せる。
「そうね、ええ、また来るかも」
心臓が痛い。
ひりつくように灼けるの。
正常な道徳心が、理性が。
彼に奪われていく。
「かも、じゃなくて」
翻弄されて。
乱されて。
堕ちていく、深く、深く。
(また会いにきて、絶対)
ガシャンと、何かが壊れた。
私にしか聞こえないように潜められた声。甘やかなテノールに、ほんのひと匙、艶めいた毒が混ざってる。
平穏。
安寧。
これまでの日々。
私の世界が、狂っていく。
「いつでも待ってる、ね」
最後の一音とともに差しだされたのは、手のひらに収まるサイズの小さな紙だった。
hair salon RAVENS
【月島 蛍】
店名と、彼の名前。
ホームページアドレス。
それから、電話番号。
03からはじまる数字の羅列を眺めながら、ようやくそれが彼の名刺なのだということを理解する。
会計カウンターの前。
月島君の指先から名刺を引き抜こうとして、おずおずと手を伸ばした。
確かに伸ばしたのだけれど。
「あ」
「?」
ひょいと逃げる名刺。
私の手が、虚しくも空を掴む。
おもむろにペンを走らせはじめた彼の、手元。名刺の裏に綴られていく数字を見て、息が止まりそうになった。
11桁の先頭は080。
これって、もしかして。
「ねえ、お姉さん」
「………っ、?」
再度差しだされる名刺。
受けとろうとして、触れる、絡む。
指先が。
視線が。
(──ひと目惚れ、って信じる?)
ヒリリと熱い。