第8章 おやつにバナナを含ませたい (R18:岩泉一)
なにも、言えなかった。
なにを言えばいいのか分からなかった。どんな顔をすればいいのかも。どうするのが正解なのかも。
私には、分からなくて。
中途半端なかたちで止まっている唇を、松川くんのTシャツが塞ぐ。香水みたいな匂い。たぶん外国製の柔軟剤、だと思う。
──……松川くん?
そう問おうとして、身じろぎをして、彼を見ようと視線を持ちあげた。持ちあげたのだけれど。
「何も言わないでいいよ」
やさしい微笑に制される。
「分かってるから」
彼はそれだけ告げて、再びその腕のなかに私を閉じこめた。分かってるから。悲しそうな声。笑ってるのに、泣いてるみたい。
「……ごめんな」
「……?」
「ちゃんと応援してやれなくて」
ぎゅう、と抱きしめる力が強くなる。
酸素がうまく吸えない。
締めつけられて、苦しい。
肺も。こころも。
「ごめん、……ずっと好きだった」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
私に返答を求めることもしなかった。何も言わないでいいよ。分かってるから。彼の悲しそうな声が、耳に貼りついて離れてくれない。
そのまま、ただ、時間が過ぎて。
永遠のような。
一瞬のような。
長くて短い10分が過ぎて、それから、松川くんが口を開いた。
「あちゃー、見られちゃったか」
わざとらしい声音。
なにか思惑を含んだような物言いに弾かれて、咄嗟に後ろを振りかえる。
展望テラスの入口。
男子生徒の人影。
階段を上りきったあたりに、複雑そうな顔でこちらを見る、岩泉くんがいた。