第1章 人助けのつもりが/ジン
「ただいまー」
いつものように仕事から帰宅すると、家の中に違和感があった。
リビングの電気が消えている。いつも漂っているジンの煙草の香りがない。
はっとして靴を脱ぎ捨てリビングまで駆けて行き慌てて電気を点けた。
そこには何もなかった。
私が朝飲んで片付け忘れたコーヒーカップはテーブルの上にそのまま残っているのに、ジンのいた形跡だけが綺麗に消え去っていた。まるでこの数日が無かったかのように煙草の吸殻ひとつ残さず。
寝室のドアを開けてみる。
そこにも、ジンが来る前と全く変わらない光景が広がっていた。
右手からカバンが滑り落ち、けたたましい音を立てた。
いつかこんな日が来るとは思っていたが、まさか前触れもなく何も言わずにいなくなるなんて。
カバンからこぼれ落ちた携帯が着信を知らせている。
緩慢な動作で手元に引き寄せ、画面を確認すると[非通知]と表示されていた。
ジンだ。直感でそう思った。
「…もしもし」
『俺だ』
「ジン?」
『ああ』
「…まったく、今日出て行くなら事前に言ってくれないと。夕飯の材料2人分買ってきちゃったじゃないですか。」
『悪い』
「まだ完治はしてないんですよ。無理だけはしないで下さいね。」
『ああ』
こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
じわりと目尻に涙が滲む。この通話が終わればもう二度と声を聞くこともないだろう。
「楽しかったです。短い間でしたけど。」
『世話になった』
その言葉を最後に、手の中の携帯は規則的な電子音しか鳴らさなくなった。
一筋、涙がさくらの頬を伝う。
気まぐれで拾った捨て犬が逃げていった、ただそれだけのことなのにこんなにも喪失感でいっぱいになるなんて。
◻︎
「よかったんですかい兄貴、直接会って言わなくて」
さくらのマンションの真下停められたポルシェに寄りかかるようにして2つの影があった。
ジンは通話を切ると、咥えていた煙草を踵で踏み潰す。
じゃり、と静かな住宅街に音が響いた。
「フン、構わねぇよ。行くぞ」
2つの影は、それぞれコートを翻して車に乗り込むと夜の闇に消えていった。