第10章 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る✔
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杏寿郎の言っていた異変に気付いたのは、悲鳴嶼行冥の山で訓練を始めて二日目の夜からだった。
夜中(よるじゅう)、氷の刃のような滝に打たれ続ける。
お経なんて全部知らないから、玄弥くんに教えてもらった反復動作を繰り返して。
思い出すのは辛いけれど、忘れてはならないことだから目を逸らさない。
そうして繰り返し思い浮かべるのは、この牙で喰らった時の姉さんの笑顔だ。
血を失って真っ白な、陶器のような顔。
なのに今まで見てきた中で一番だと思えるくらいに美しかった顔。
誰よりも優しい笑顔が似合う姉さんから、最後に貰った優しさの欠片。
そして、それを血肉ごと喰らった自分の姿を。
そうすると最初は目の前が真っ黒に潰されるような思いだった。
それを繰り返すうちに、それは"思い"ではなかったことを知った。
本当に、私の周りを黒く覆い尽くす。
悲鳴嶼行冥の纏っている色よりも、ドス黒い色。
滝行をしている私の足元から、じわじわと競り上がってくる。
蛇のようにうねり、蜘蛛のように手足を広げて。
初めて見た時はぞっとした。寒気も覚えた。
でもそれは最初の一瞬だけで、すぐに恐怖は感じなくなった。
自分の体から派生しているものだから理解できるのか。
正体は突き止めなくてもわかったからだ。
影だ。
常に張り付いている、私の体の一部。
憶えていないけれど、玄弥くんの腕を掴んで水中へ引き摺り込んだ黒いものも私の影なんだろう。
それがまるで生き物のように存在を主張してくる。
怒りと痛みの、記憶と引き換えに。