第37章 遊郭へ
鬼となって失った記憶は幾つもある。
人間の頃はどんな生き方をしていたのか。
自分の名前はなんだったのか。
本当に妹はいたのか。
そんな疑問は、疑問となる前に妓夫太郎の中で抜け落ちた。
生き方など知らずとも息の仕方は知っている。
名乗れる名前なら既にある。
堕姫が妹であるかどうかなど、そんなもの愚問でしかない。
「…そうだなぁ」
止まっていた視線が和らぐ。
いつも以上に幼く見える妹の頭をひと撫ですると、ギザギザの歯が剥き出す口角も同じに緩めて妓夫太郎は告げた。
「オレ達は二人なら最強だ」
誰に問いかけるでもない。
自問自答をするでもない。
口にすれば自然とそれが当然のことのように思えた。
妹もきっとそうなのだろう。
姿形はどんなに似通らずとも、ここまで心の内で互いにしっくりと馴染むものがあるのだ。
それ以上もそれ以下も必要ない。
「何も怖くないだろ?」
自然と口をついて出た。
妓夫太郎のその言葉に、堕姫の頬がぷくりと膨れる。
「何言ってんのお兄ちゃん。アタシには何も怖いものなんてないわよ」
「あ~…そうだったなぁ」
「変なの」
「はは、悪かったなぁ」
棘のない声。
緩い眼差し。
凡そ上弦の鬼とは思えない二人の空気に、蛍は一人堕姫の腕の中で身を竦め続けていた。
(凄く場違い感がある自分…!)
これでは本当にただのお邪魔虫ではなかろうか。
だがそれを言葉にして今の空気に口を挟もうものなら、借りてきた猫のように大人しい堕姫が途端に噴火するだろう。
他愛のない雑談のようで、それが二人にとって大切な時間であることは蛍にも理解できた。
沈黙が最善策であると、地蔵のように微動だにせず空気と化す。