第37章 遊郭へ
妹を視線で一度制した後、再び男の目が蛍へと向く。
わざわざ姿を現してこの鬼に目を止めたのは、それが理由ではない。
花魁の道を人が通ろうが鬼が通ろうが関係ない。
自分の妹以外の面倒を見る気もない。
それでも何かが引っ掛かる。
気配か。匂いか。別の何かか。
この鬼に出会ったのは、初見ではないような気がした。
「…ゅ…」
「あぁ?」
押し黙ったままほとんど声を上げなかった蛍の唇が、微かに開く。
震えるそれを形に変えて告げた。
「妓夫、太郎」
それは確かに男の名だった。
暗い目を見開く男と、後方で待機していた女が言葉を失う。
上弦の陸であることに驚きを隠せていなかった蛍だ。
となれば元々妓夫太郎達のことを知っているはずはない。
それでも名を知っていたとあらば、鬼ではない自分達のことを記憶しているのか。
「だ…堕姫」
続けて蛍が震える口で示した名に、その可能性はすぐに妓夫太郎の中で否定された。
【堕姫】は妹が鬼となって無惨に付けられた名だ。
長年花魁として生きていく間、源氏名を幾度と変えても妹が必ず【姫】の文字を付けたがった理由はそこにある。
反して妓夫太郎の名は、人間の頃の名だった。
名と呼べる程のものでもない。
妓夫とは、遊郭において主の客の呼び込みや、借金をしていた役職の者達を差す言葉である。
「ぎう」又は「牛太郎(ぎゅうたろう)」などの呼び方があったが、妓夫太郎は役職名を付けられるがままに己の名にしていた。
それも遥か昔の記憶。
鬼となった妓夫太郎自身ももう憶えていない。
ただ体中の痣のように斑に残った人間の頃の記憶から、その名を名乗り続けていた。
「何よ…なんであんた、アタシ達の名前を…誰よあんたッ」
動揺を隠しきれない妹──堕姫とは反して、妓夫太郎は冷静なままだった。
皮を被っているからわからないのだ。
それでも第六感のようなものが常に示していた違和感は間違いではなかった。
「お前…本当の皮を剝がされたくなけりゃあ、その"皮"脱いでみろぉ」