第37章 遊郭へ
今、あの女鬼は「お兄ちゃん」と呼ばなかっただろうか。
何処にでもありふれた名称だが、点と点が結びつくように蛍の記憶を遡る。
この鬼のことを知っている。
化粧と髪色と見慣れない衣装ですぐにはわからなかったが、こんなにも美を惹き立てる顔立ちは早々いない。
初めて見たのは、初詣に訪れたとある神社の敷地内。
広い土地に大勢の人が行き交う中で、温かな衣類に身を包んだこの鬼は笑っていた。
兄と慕う、別の鬼に。
「こんな鬼なんて構う必要ないわよッ人間の男にだって力負けするような弱い鬼なのに…!」
「オレが気にしてんのはそこじゃねぇよ。いいからお前は黙ってろぉ」
「待っ…お兄ちゃん!」
兄と呼ぶからには、妹なのだろう。その制止を気に止めることもなく、男の声は不意にリアルさを増した。
女の口から届いていたものが、突然空気を変えたのだ。
ずぅるり。
まるでそれは女の体から羽化する昆虫のようだった。
女の背後の肉が盛り上がったかと思えば、浅黒くごつごつした骨と皮の体がもう一つ、這い出るように現れたのだ。
羽化と言うにはなんとも不気味で、背筋の凍るような光景。
更には空気そのものも塗り替わるように凍り付く。
女が現れた時とは比ではない緊張感は、ぴりぴりと蛍の肌を棘のように突き刺す。
(や、っぱり)
そして、その新たな鬼の顔にも見覚えがあった。
女も目を惹く美貌を持っていたが、男は尚の事一度見たら忘れない顔をしていた。
ほぼ上半身は衣服など身に付けていない。
だからこそ目の当たりにできる男の体は、腰骨が皮膚を張り上げ形を表に出す程ガリガリで、胴体は幼子程の細さしかない。
浅黒い肌の至る所にある痣は、病気のように斑に浮いている。
目の周りは窪んで影を作り、その中心にある眼球はどんよりとした黄ばんだ色をしていた。
ただ瞳孔だけは妹と同じ若緑色をしている。
そしてその目には【上弦】【陸】の字が刻まれていた。
(上弦の陸…が、二人…ッ?)