第37章 遊郭へ
そうだ。この男は客だ。
ただの金蔓でしかなかった。
それは今も変わらない。
誰がこんな男に愛を誓おうか。
己の欲の為に手を挙げるこんな男になど。
──ボコ リ
「ッ!」
押し倒された蛍の影がぞわりと荒立つ。
その下でうごめく獣の威圧を感じて、咄嗟に歯を食い縛った。
(だめ出てくるな…ッ!)
蛍の意思とは関係なく自立して動く杏ノ陽だ。
陽光など蛍に害を成すものから守る行為は、対人物にも機能する。
相手が悪鬼ならまだしも、正一はただの人間。
簡単に悪鬼の頸も食い千切る杏ノ陽が、正一の命を奪うことは蟻を踏み潰す程に容易い。
それは駄目だ。
杏ノ陽に人を殺させるなど。
絶対に殺人鬼にさせてはならない。
震える手で拳を握り、蛍は細い糸のような理性を必死に繋ぎ止めた。
臆するな。屈するな。
負けてなるものか。
「なァ柚霧…ッ!!」
「…ッ」
でなければ、過去と何も変わらない。
「なに言ってんのよ。客はただの客でしょ」
ぱんっと乾いた音だった。
言うなれば手洗いをした衣類を干す際に、皺を伸ばす為に振り叩くような。心地良い乾いた音だ。
しかし蛍の目の前には、まるで違う光景が広がっていた。
「え」
乾いた音と共に宙を飛んだのは、今し方まで声を荒げていた男の頭部。
その目が一瞬呆けたように止まり、口から短い疑問符を零す。
瞬間、頭部を失った頸からシャワーのように真っ赤な鮮血が降り注いだ。
びしゃびしゃと蛍の顔を、体を、生暖かい血が濡らしていく。
ごとんと畳に落ちた正一の頭部がぐるりと回り、その上をかこりと高下駄が踏み付け止めた。
漆塗りの光沢が艶やかな、高級感のある高下駄だ。
「金しかない男が、なんでアタシ達の心まで買えると思ってんのよ。バカね」
冷たく言い放つ声は、女性特有の高いものだ。
それでもそこから滲み出る威圧は、殺気さえも含んだ底冷えするもの。
高下駄がぐしゃりと、呆気なく正一の頭部を腐った果実のように踏み潰す。
血の付いた下駄の底を汚らしいとでも言うかのように、畳に擦り付け拭き取ろうとする。