第37章 遊郭へ
正一様。
その名を耳にした男の口角が震えた。
「…様、だと」
最初に蛍に名を呼ばれた時の歓喜とは違う。
わなわなと口角の震えが大きく変わる変貌に、蛍ははっとして身を退いた。
「様などと呼ぶなッ!!」
「っぅ…!」
その身になだれ込むように正一の体が伸し掛かる。
揉みくちゃに畳に背中から叩き付けられた蛍の頸に両手がかかる。
「何が荻本屋の花魁だ…ッやってることは昔と何も変わらないだろうッ男に媚びを売り、体を重ねて、喜ばせることしかできない…!」
「っ…ぐ…」
両手は遠慮も無しに蛍の細い頸を締め上げる。
みしみしと骨が軋む音と気道を潰す威圧に、蛍の顔が歪んだ。
あの日と同じだ。
正一と月房屋で最後に肌を重ねた、あの日と。
男は独占欲の塊だった。
その為に客扱いされることを嫌悪した。
ただの敬称も、正一にとっては怒りを生む起爆剤になる。
そんなことは蛍も知っていた。
それでも抗えると思った。
自分はもうか弱い金魚ではない。
こんな男の腕力くらい、片手で捻じ伏せることができる。
「っ…」
できるはずだ。
腕を上げろ。
頸を締める手首を掴め。
伸し掛かる体を蹴り上げたっていい。
なのにそれができない。
畳を掴む手は冷たく、微動だにしない。
急速に酸素を失くす頭は血の気も退き、陽に当たらない顔をより一層青白く変えた。
呼吸を極めたはずの喉はか細く鳴るばかりで、ひゅくりと震えを音と化す。
あの日だ。
あの日と同じだ。
愛しているとちぐはぐなことを言いながら、体を蹂躙してきた時と。
あの時もただ体を強張らせるばかりで、何もできなかった。
「月房屋を出ていく時は俺のものになると言った癖に…! お前がついた浅はかな嘘を許そうとしたんだぞ! なのにお前は…ッまた俺をただの"客"として扱うのか!!」