第37章 遊郭へ
「嬉しいよ…俺の柚霧。お前程の女なら花魁にだってなれると思っていた。月房屋のような小さな店で埋もれていく女じゃない」
どこか夢見心地な声で囁く。
愛おしげに見つめ、頬を擦り寄せる正一に対し、柚霧は体を強張らせたまま動けなかった。
与助の時と同じだ。
鬼の体をした今なら抗うこともできるはずなのに、四肢は思うように動かない。
叩き付けられるように染み込まされた過去の恐怖が体を鉛に変え、呼吸すら乱していく。
「だけどお前は何処に行っても体を売るんだな。そんなに粗末に自分を扱っては駄目だ」
綺麗に飾られた横兵庫の髪を、優しい仕草で撫でつける。
「俺の大事な柚霧だ。その体も大事にしなければ」
その手が銀の櫛に触れた時、ひゅくりと途切れていた息を蛍は細くとも繋いだ。
「っ正一、さん」
ぎりぎり繋いだ呼吸を言葉に変える。
今度ははっきりとその名を呼ぶことができた。
「私は…もう、月房屋の柚霧では、ありません」
静かに顔を退き、その手から銀の櫛を遠ざける。
今の自分は、何も考えずに男に肌を晒していた金魚ではない。
今この場にいるのも、再び遊女として色街に潜んでいるのも、確固たる理由があるからだ。
「荻本屋の花魁です」
雛鶴達を見つける為。
悪鬼を見つける為。
それはこのどうしようもない浮世の世界で、沈んでいく命を掬う為だ。
「私の体は、誰でもない私のものです。私のお客様は、私自身が選びます」
他の客の前では駆け引きもそれなりにしていたが、正一の前で同じことをしようとは思わなかった。
もうこの男から金銭を搾り取る理由はない。
鬼と関与していない一般人に長々とつき合う必要はないのだ。
「貴方様は荻本屋(ここ)で初めてのお客様です。お互いのことをよく知る為に、まずはお酒や芸事に興じる。そう決めています」
一見客に肌は晒さない。
それはどんな太客であっても蛍が一貫して通してきた事実。
やんわりと片手を正一の手首に添えると、そっと胸元まで下ろす。
僅かに腰を浮かせて一歩退くと、蛍は目元と口角を柔らげ微笑んだ。
「ですので正一様。まずはこの柚霧と、お話をしましょう」