第36章 鬼喰い
言葉など持たない、命すらあるのかわからないこの獣に、何度背を支えられたことだろうか。
気が狂いそうな浮世の中で、辛うじて自我を保てているのはこの陽だまりのような温もりがあったからとさえ思えた。
支えとなりながら、同時に呪いを突き付けてくるからこそ。
杏ノ陽と安易に付けた名は、ただの理由のようなものだ。
その名で繋ぎ止めれば、傍に置いても言い訳が利くと思った。
血鬼術なのだから、鬼(自分)の傍にあって当然だと。
(ごめんね。杏)
それは全て浅ましいだけの言い訳だ。
呪いの形だとわかっているのに、傍に置いておきたがる。
自分の醜さを証明させる為のものなのに、安らぎも感じてしまう。
身勝手で、矛盾だらけの私利私欲。
「……」
杏ノ陽の額に触れていた手で拳を握る。
沈黙を置いて、蛍は静かに身を起こした。
隣でむにゃむにゃと穏やかな寝息を立てている蜜璃が起きる気配はない。
その眠りを妨げないように、そっと布団の中から抜け出した。
(行こう)
こんな浅ましい欲を自分の術に向ける鬼の姿など、蜜璃には見せたくない。
それと同時にやはりこんな所で眠れもしない身体を持て余す時間が無駄に思えた。
どうせ眠れやしないのだ。
じっと焦燥するだけなら、この足で駆けてこの牙で一匹でも多く悪鬼を滅するに限る。
「クル…」
「蜜璃ちゃんには、後で文を飛ばしておくから」
だから大丈夫、なんて安易なことは言えないけれど。
無断で去ることをどうか許して欲しいと、足音を立てずに廊下を進む。
大人しくひたりと後ろをついて歩く杏ノ陽だけが、閉め切った襖に一度だけ視線を投げた。