第36章 鬼喰い
「なんのってお前、れ──」
「れ?」
「…千寿郎が言ってただろーがァ。汗なんかでも、お前は餌として摂取できるってなァ」
千寿郎。
その名にぴくりと蛍の口の端が止まる。
「…ああ、あれ」
それも瞬くような一瞬で、すぐに採血を再開した。
「汗…は、あまり貰ったことないけれど。…千くんのものなら…涙を貰ったことがあるかな」
「…泣かせたンかよ」
「な、泣かせてはない、と思う。偶々涙ぐむことがあって、その時に少し頂いただけで」
杏ノ陽と呼ぶ獣に対してだけではない。
千寿郎のことを思い語る蛍の声色にも、先程はなかった感情が宿る。
「泣いてた子供に餌をたかったのかお前」
「偶々、だよ。偶々。そういう話の流れになっていたから、それなら涙が欲しいなって。千くんは、優しいから…自分の血を分け与えようと、必死になってくれたから。流石に血を流させる訳にはいかないし、それなら代わりに泣いた時にでも貰えたら嬉しいなって。そう伝えただけ」
「…じゃあ、拭ってやったのか」
「ぬぐう?」
「あいつの涙」
いつの話かなど、時系列は一切語っていない。
それでも蛍の手が止まってしまったのは、涙跡の滲む手紙を先程までこの手に握っていたからだ。
今もまだ泣き続けているかもしれない。
千寿郎のその涙を拭ってやれる手は、彼の傍にはない。
あの広い煉獄家を照らしていた兄が消えた今こそ、傍にいてあげなければならないのに。
「…採血、終わりました」
音も無く拳を握る。
そっとその手を実弥から離すと、静かに蛍は呼吸を整えた。
少しでも乱してしまえば、柱である彼には気付かれるだろう。
狐面の下に隠したものを。
「ありがとうございます」
「…オイ」
「はい?」
針を抜いた実弥の腕に、匂いが立ち込める前にとすぐにガーゼを当てる。
流れるようにそそくさと容器に詰め替えた血をしまい込めば、微動だにしない実弥に止められた。