第36章 鬼喰い
杏ノ陽と名付けられた獣が、地面に書かれた文字に鼻を近付けスンと嗅ぐ。
それが自分の名だとわかっているかのように、鼻先を蛍の懐へぐりぐりと押し付けた。
「うん、そうだよ。これが杏の名前」
闇のように黒い体は、時折揺らめく縞模様が泳いでいる。
温かなその体をもふりと抱き締めて、蛍は笑った。
「瞳はお月様みたいだけどね」
強い光を纏ったような瞳孔の中心に、鮮やかな朱色が滲む。更には他に類を見ない金の輪を持つ、印象的な瞳。
それが月と似ていると言われても実弥には理解などできなかったが、他に似ているものなら知っている。
先程から脳裏を離れない、炎柱の双眸だ。
寧ろ煉獄の家系以外に、同じ瞳を持つ者など見たことはない。
無二ともなるあの双眸が、杏ノ陽と無関係には思えなかった。
「あ。それより稀血、頂けますか」
不意に思い出したように告げる。蛍の狐面がこちらを向いたと思えば、既に先程の空気は消えていた。
生命かも疑わしい血鬼術には感情を垣間見せるというのに、人間である自分には淡々と起伏のない声しか向けない。
無意識なのか、意図的なのか。判断はつかないが、蛍の切り替えには短い実弥の堪忍袋の緒も細くなる。
「人の生き血を頼む態度がそれかァ」
「…少しで構わないので、恵んで頂けるとありがたいのですが…」
「媚びへつらうな気色悪ィ」
「どっち」
思わずぴきりと額に青筋を浮かべながら嫌味を言えば、深々と三つ指揃えて頭を下げてくる。
どちらであってもいけ好かないのは、相手が鬼だからだ。そう結論付けて、実弥は舌打ち混じりに片手を差し出した。
「オラ。やるならさっさとやれェ。ただしテメェの要望を聞くってんだ。俺の要望も聞いてもらう」
「え。斬首はちょっと」
「誰が頸かっ斬るつったァ! 本気で殺ってやろうか、ァあ!?」
「それ以外に何かあるんですか…」
「逆にそれ以外なんで何もないと思うんだテメェは」
いくら柱の中で血の気が多いと言われていても、蛍との付き合いも数年だ。
本気で斬首を望むなら、蛍が今此処で自由行動を取れている訳がない。