第36章 鬼喰い
「まぁ、そのうち適当な水場でも見つけたら汗は流せるので」
すん、と己の腕を嗅ぎながらも気にした様子はない。
寧ろ臭いだろうかと頸を傾げる始末に、実弥は呆れ顔でその腕を掴んだ。
「それをしねェから臭うつってんだろうが。鼻が麻痺してんじゃねェのかァ?」
隊士達とて任務続きの日はあれど、皆支給された隊服を身に付けている。
それは柱も変わらない。
対して蛍の紫外線予防の袴は、杏寿郎の指示により特注で作らせたものだ。
代えが無いからこそ、当然のようにそれだけ身に付け続けている。
袖の下を覆う黒い長手袋を抜き取れば「あ」と呆気ない蛍の囁きが零れた。
──ボォッ!
同時に、突如として黒い炎が立ち昇る。
蛍の背後を覆い被さるように昇るそれに、反射的に実弥の手は腰の日輪刀を握っていた。
「大丈夫です」
ただし蛍の影には殺気がない。
同じに冷静に告げる蛍に、抜刀するまでには至らなかった。
それでも目を見張ったのは、座る蛍の体を悠々と跨ぐ程の巨体を持つ影だ。
覆い被さる炎の先が地に着いた時、それは鋭い爪を持つ四肢へと変わっていた。
巨大な、黒い獣。
見開く金輪の双眸が実弥を捉えたのは一瞬だけで、ゆっくりと後ろ脚に重心をかけると蛍の背後を守るように座り込んだ。
「大丈夫。陽には当たっていないから」
二度目の呼びかけは、実弥にではない。
砕けた口調で蛍が語り掛けているのは、身を寄せる獣に対してだ。
「心配してくれてありがとう」
一噛みで蛍の頭など飲み込んでしまいそうな大きな口元に、手袋を抜いた素手で触れる。
蛍の発言を聞くところ、その腕が晒されたことに反応したのか。
獣自身は、その巨体故に木陰で身を隠せていない。
というのに、陽に当たっている体が鬼のように消えていく気配はないのだ。