第35章 消えがてに ふるぞ悲しき かきくらし
何度か蛍が見せていた影鬼とは、比べ物にならない質量だった。
止めどなく溢れる黒い影が津波のように、槍水を全て飲み込み押し流す。
「(まだ力を温存していたか…! けれど)この世界では無意味」
一瞬驚きはしたものの、すぐに少年は余裕のある笑みを浮かべた。
天候は雨。
自然現象はこちらに味方している。
片袖を振るうだけで無限に槍は再生され、延々と鋭い針の雨を降らせることができる。
「力比べなんて──」
目の前の黒い津波を押し返そうと、片足をぬかるむ土に突き立て踏ん張った。
大きな技を放つ為に構える。
少年のその目に映ったのは、覆うような巨大な津波ではない。
(な、に?)
攻撃を放とうとする少年の目の前に、ずるりと這うようにそれは姿を見せた。
蛍の足場にあったはずの黒い塊が、長い尾を引き少年の足元まで手を伸ばしている。
ぐねぐねと動く様は少年の操る水にも似ていたが、奥底の見えない黒い面積は何かが蠢いているように見えた。
首筋の裏に、寒気を感じる。
あんなにも巨大だった影が、いつの間に姿を変えたのか。
状況を把握する前に、伸びていた黒い手がひゅおりと少年の視界の横を通り過ぎた。
──ぴ、と。耳を澄ませても聞こえない程の小さな亀裂音。
それでも確かに、少年の耳はその音を拾った。
「…ぁ?」
蛇口を一気に捻り開けて解放された水音が、耳に響く。
激しい水流は少年の世界である雨水によるものではない。
頬が温かい。
ぱしゃぱしゃと当たる生暖かい水に、少年の目がぐりんと下を向く。
赤。
視界に飛び散るそれは、頬を打ち付け濡らしていた。
肩から鎖骨までを切り裂いた、断ち傷によって。
ざっくりと巨大な爪に裂かれたような傷は、少年の肉体を豆腐のように削り取っていた。
「か…っッ」
ひゅ、と上がる少年の息が、すぐにごぼりと濁りで詰まる。
口から溢れたのは、肩を裂いて迸らせていた血飛沫と同じものだ。
ごぼごぽと詰まった排水管のような音を立てて、少年から言葉を奪い取った。