第35章 消えがてに ふるぞ悲しき かきくらし
「やめ…ッ」
身を切るような冷たい水が体の自由を奪う。
「や…ッて…!」
口を開こうとすれば流れ込む水で、息継ぎさえまともにできない。
それでも叫ばずにはいられなかった。
「…ッ」
みしみしと体が軋み悲鳴を上げる。
真上から落ちて来る鈍器のような雨粒は、止まる気配がない。
それでも蛍の体を動かしたのは、途切れ途切れに届くアオイの悲鳴だった。
泣いている。
声を上げている。
この音は、知っている。
『おはよう、蛍。今日も一日よろしくね』
世界が真っ赤に塗り潰された日から、ずっと傍にいた。
朧気に見える世界の片隅で、いつも顔を覗かせて声をかけてきた。
それがなんなのか思考は読み取ろうとしなかったが、体が憶えていた。
ずっと前にも、同じように身の回りの世話をされたことがある。
あの時はまともに目も向けずに、開いた口は刃ばかりを突き刺し、身に纏う色は"怒り"だけだった。
『…おやすみ、蛍。また明日、ね』
夜が更け、人の気配が少なくなる頃に、しんみりと沈む声で呼びかけては去っていく。
優しいあの音色に、怒りなどもう見えなかった。
労いと安堵と、感謝と不安が染み入る声で。
そこにほんの少しだけ、寂しさのようなものも混じえて。
その音は知っている。
聴いたことがある。
己の無力さを知りながら、それでも今できることをと模索して進む。
幼い体の中で、小さな小さな灯火を抱いて。
あれは、誰の音だっただろうか。
「ッ…」
朧気な世界では何もわからない。
何も掴めない。
ただ漠然と己の中に在るのは、ひとつだけ。
その音を守らなければ、と思っていた。
「少し大人しくしておいでよ。あまり水を飲み過ぎると体によくな…い…?」
命の危機ではなく、鮮度の問題としてアオイに告げる。
少年のその声は、尻すぼみするように途切れた。
ぼきん、と鈍い音がした。