第34章 無題
──ぽた り
雨が降る。
──ぽ たり
音もなく。
小さな雫が珠のような形を作り、重力に従うように落ちていく。
ひとつ、またひとつ。
「きょ、う」
しゃくり上げる声が、途切れ途切れに名を呼ぶ。
涙を縁いっぱいに溜めていた瞳は、大きく見開き固まった。
鮮やかな濡れる緋色の瞳孔に映るは、ただ一人。
幾つもの表情を見せてきた杏寿郎の、初めて見せた顔だった。
ひとつ、またひとつ。
頬を伝い落ちるは、透明な雫。
「っ」
息を呑む。
あんなにも狼狽えていた衝動が、杏寿郎の頬を伝うもので止まってしまった。
感情が豊かなことは知っていた。
ただ、哀しむよりも笑うことの方が多いひとだった。
十歳の区切りに幼い心を捨て、家と、家族と、守るべきものを全て背負ってしまったから。
人よりも少しだけ、哀しむことが苦手なひとだった。
それでも共に過ごす中で沢山の顔を見せてくれた。
破天荒な我儘も、子供のような甘えも、不器用な弱音も。
それでも過去一度も見たことがない。
灯火のような双眸から、ほろほろと感情の雫を落とす姿は。
(──ぁ)
身動き一つできない蛍の頬に、今一度触れる分厚い手。
乾いた血がこびり付いた指で、髪をくしゃりと柔く握る。
まるで最初からそうと決まっていたかのように。一歩踏み出した杏寿郎により、呆気なく互いの距離はなくなった。
唇に熱。
柔らかなそれが、口付けだと悟った時。
じんわりと蛍の口内に甘くほろ苦い味が広がった。
──血だ。