第34章 無題
「──ッ」
どくりと弱りきったはずの心臓が震えた。
細かったはずの息が乱れた。
乾いていたはずの双眸が揺れた。
(──駄目だ)
人間であった頃の蛍にとっての世界は、姉だった。
彼女がいたから蛍が在り、柚霧が生まれ、鬼の身体になっても尚、人の心を宿し続けられた。
その世界が壊された時、蛍は一度その身を悪鬼に堕とした。
憎悪しか生まれない男達を破壊し、最愛の姉の体を喰らい、一生消せない枷を背負った。
(いけない。違う)
それと同じことをまた起こさせるのか。
自意識過剰などとは思わない。
いつの間にか灰色がかっていた自分の世界を、彼女は変えてくれた。
鮮やかな彩(いろどり)を与え、芽吹かせてくれた。
その世界を見たのは自分だけではない。
『世界が色付いて、芽吹く世界を見たの』
杏寿郎越しに見た世界が、鮮やかに照らされ光るのを見たのだと。そう語ってくれた蛍にとっても同じことだ。
姉の死と、自分の存在が消えてしまうことは。
そんな世界の崩壊を、再びその身に負ってしまったら。
心と体を深く抉り、粉々にする程の傷を再び負ってしまったら。
今度こそ蛍は耐え切れないかもしれない。
(選べ。伝えろ。その身に、これ以上枷を付けない言葉を)
愛する者の死の瀬戸際の言葉が、想いが、どれ程大きなものなのか。
それらが一生の支えになることもあれば、時には一生の呪いとなることも知っている。
蛍の足枷にしては駄目だ。
呪いにしては駄目だ。
姉の死が大なり小なり蛍の枷になっている今、更に自分までも重荷になってしまったら。
今度こそ蛍は立つことすらできなくなってしまうかもしれない。