第34章 無題
──思えば、猗窩座に奥義である煉獄を放つ際、腹は括っていた。
長年鍛錬を積み重ね、限界まで挑み、向き合ってきた己の身体だ。
ここまでの深手を負い、更なる進撃をすることは、後の生き方に支障をきたす。
その未来が見えなかった訳ではない。
今と同じ精度の呼吸は、もう使えなくなるだろう。
柱としての任務も、以前のようにはこなせなくなる。
五体満足でいて欲しいと告げてくれた蛍の願いも、叶わぬものになってしまうかもしれない。
それでも振り返らなかった。
迷うことはなかった。
相手は上弦の参。
今まで出会った鬼の中で随一の実力を持った鬼だ。
駒澤村で対峙した童磨でさえも、猗窩座には劣った。
あの時の童磨は蛍の肉体を借りた分身だった為だろうか。定かではないが、そんなことを悠長に考える気もなかった。
絶対的な事実は、目の前の鬼が今までの人生で一番の脅威であること。
そしてその鬼が、蛍を攫おうとしていること。
それだけは許してはならない。
蛍を相手の手中に落としてはならない。
何がなんでも絶対に守り切らなければならないものだ。
その想いのどこに迷いがあるものか。
だからこそ覚悟はあったはずなのに自覚はなかった。
この意志を貫くことが、死期を早めることだと。
「っ…きょ、う」
ようやく開いた唇は、まともな単語一つ成せずに崩れ落ちる。
「ぃゃ…い、嫌…っ」
目に見えてわかる体の震えに、呼吸の荒さ。
血の跡を消す程に溢れ返る涙は、尽きることを知らない。
「きょ、じゅ…ろ」
名を呼ぶだけで、恐怖を浮き彫りにする。
蛍の悲痛なまでのその姿が、自覚のなかった杏寿郎の心に深く浸み込むように教えてくれた。
これが自分に残された最期なのだと。