第34章 無題
(願わくば──俺の、手で)
そう思っていた。
本気で掴み取ろうとした。
誰が諦めようとも、自分だけは諦めないつもりでいた。
蛍に一度止められても、意志は曲げなかった。
鬼の始祖を捕え、その手で蛍を人間に戻すまでは。
「…?」
ぬるりと、口元を濡れた何かが伝う。
指先で触れれば、真新しい鮮血がべったりと付いていた。
見下ろす双眸が、少しだけ見開く。
痛みはない。
二度と開かない左目も、風穴を開けた腹部も、骨を折ったあばらも。
僅かな痛み一つ感じないのは、この世界の主のお陰だろうか。
テンジの反転世界に似ている。
だが蛍の能力はテンジと同じものではない。
(俺の為に…まだ、削ってくれているのか)
もう目の前の蛍を蝕む影はない。
止められない致命傷が杏寿郎の体に戻ってくる中、それでも痛みだけは取り除こうと、この世界は抗ってくれているのか。
その予感と同時に悟る。
これだけの深手の傷は、やはり並々ならぬ代償がなければ止められないことを。
「……」
じっと己の手に付いた血を見つめる。
自分の体に何が起こっているのか、喉の奥から溢れる錆びついた鉄の味が思い知らせてくる。
足音もなく。気配もなく。
背後から歩み寄ってくる、死という存在を。
「…ッ」
息を呑む気配がした。
視線を上げた杏寿郎の目に、蛍の顔が映る。
血の涙の痕が残る蛍の両目は、杏寿郎より遥かに大きく見開いていた。
鮮やかな緋色の瞳孔がはっきりとわかる程に揺れて、えづくことしかできなかった唇の端がわなわなと震えている。
(…嗚呼、)
彼女にも見えているのだろう。
この背後に忍び寄っている、誰しもに平等にあるあの存在が。