第34章 無題
「蛍」
愛おしい名を刻む。
微動だにしなかった瞳が、その一言で揺れ動く。
あんなにも止めどなく溢れていた血の涙は、いつの間にか止まっていた。
「…っ」
震える唇を噛み締める姿は、何かを抑えこんでいるようにも見えた。
忘れないで欲しいと願うのは自分ばかりで、彼女はきっとその身に宿した心を失くしはしないだろう。
微笑み一つ向けるだけで、こんなにも感情を含んだ表情を向けてくれるのだから。
「これを、止めてくれ」
それでも未だ蛍の四肢を蝕んでいる影に手を伸ばす。
杏寿郎が躊躇なく触れようとすれば、嫌がるように途端に影は勢いを失った。
剥き出しの牙を自身には向けても、杏寿郎には掠ることさえ許さない。
蛍の心の化身のようなその影は、萎れて枯れた植物の茎のようにはらはらと蛍の足元に散っていった。
「っ…ゲホッ」
萎れる影とは反対に、見上げる蛍の表情には尚も揺さぶられるような感情が増す。
何かを告げるように開いた口は、言葉にはならずにえずいただけだった。
(当然だ。人智を超えた力を持っていたとしても、鬼は神でも仏でもない)
世の理に逆らえるのは精々自分の身体だけで、他人の運命(さだめ)までは変えられない。
どんなに用意された家系や生まれ持った能力に差はあれど、命だけは誰しも平等なのだ。
等しく与えられたその重みは、誰にも変えられないものなのだから。
ただ一つ、全ての始まりである鬼舞辻無惨を除いて。
だからこそあの鬼だけは許すことができない。
許してはならない。
蛍を、禰豆子を、テンジを、全ての鬼である者達の足を人の道から踏み外させた、あの始祖だけは。