第34章 無題
「……んで…」
杏寿郎の傷しか見ていなかった蛍の瞳が、初めて揺らいだ。
俯くように下げて、唇を噛み締める。
「なんで…そんなこと、言うの…」
淡々と事実だけを告げていた声が、か細く小さなものへと変わる。
「杏寿郎だって、皆を守る為に…自分を──…」
そこから先はぷつりと途切れて聞こえなかった。
震える声が限界を迎えたからではない。
その先の事実を口にすることを、蛍自身が拒んだからだ。
尚も強く唇を噛み締め、深く俯く。
猗窩座から皆の命を守る為に己を盾にした。
視点を変えれば自己犠牲とも取れる行為だ。
鬼殺隊は明日をも知れぬ身。
人生の半分も生きていない頃から遺書を残し、一般市民の記憶にはほぼ残らない隠された組織として戦う。
そんな道しか知らずに育った杏寿郎が、それでも蛍と共に生きようと誓ってくれた。
同じ未来を歩もうと、形にしてまで誓ってくれた。
その決意の強さは、覚悟の深さは、並々ならぬものではない。
だからこそ蛍もまた知っているのだ。
杏寿郎が望んで今、この体に成り果てた訳ではないことを。
「……」
鬼の片鱗を強く見せていた蛍だが、その根本にはあるのは普段の彼女が持つ、繊細であたたかい心だ。
それを感じられたからこそ、杏寿郎は僅かに表情を和らげた。
それでもうごめく影は、未だに蛍の体を喰らい続けている。
鷲掴むようにして握っていた両肩から、そっと手を離す。
強く握っても揺さぶっても軸がブレなかった蛍の体は強靭なものだ。
それでも今目の前にあるその体は、己の術に喰われ続けている。
一つ、深呼吸。
目を瞑り、深く息を繋げる。
呼吸技を使うような洗練されたものではない。
それでも深く息を繋いで、呼吸を整える。
どんなに肺を動かしても、穴が空いたはずの腹部には痛みの一つも走らない。
少しの沈黙の後、ゆっくりと杏寿郎は双眸を開いた。
先程よりもはっきりと見える蛍の姿を、目に焼き付けるように。