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いろはに鬼と ちりぬるを【鬼滅の刃】

第34章 無題



「やめろ蛍…!」


 何を。と問われれば正確には答えられない。
 それでもこれが最善の選択ではないことはわかっていた。

 頬を滑るように流れ落ちる血の涙は、一筋、二筋と線を作っていく。
 重力などあるようでないこの世界で、両目から流す血の涙だけはそれが現実だと告げているかのようだった。

 体に痛みは感じない。
 寧ろ先程より声が出る。
 動かすこともままならなかった腕が、反射的に飛び出し蛍の肩を掴んだ。


「自分の体を犠牲にするなッ!」


 確信だ。
 この世界の主は蛍だ。
 その主が望めば、人間一人の体も再構築できるのかもしれない。

 それでも蛍の能力は治癒ではない。
 再構築する為の代償は支払わなければならない。

 それがこれだ。


「動かないで」

「聞けないッ」

「私はいい。失っても戻る」

「聞けない…!」


 鬼の体は万物の原理を無視する。
 それは蛍の体にも言えることだ。

 しかしそれは、蛍が"鬼"だからだ。
 鬼と人間の間にある境界線が決して交わらないのは、そこに明確な"差"があるからだ。

 それを痛い程に知っている。
 何年もただ共に鬼である彼女と歩んだ訳ではない。


「ここは蛍の世界だ。だから俺も息ができている。だがここに一生居続けることはできない…!」


 両肩を強く鷲掴む。
 揺さぶるように声を張り上げれば、杏寿郎を見ていなかった緋色の目が動いた。


「人間の体は失ったものを取り戻せない。それを蛍の力で代用するのなら、一生その能力(ちから)に頼ることになる」

「それの何がいけないの。杏寿郎の助けになるなら、一生だって私」

「一生、その為に誰かの血肉を喰らうのか」


 血肉を喰らう。
 その言葉に、ぴくりと蛍の唇が震え止まる。


「一生、己の手足を俺に差し出すのか」


 蛍の肉体を蝕む影糸は、既に膝のすぐ下まで迫っていた。
 流れる血の涙も止まる気配はない。

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