第34章 無題
「ほ…蛍…?」
今までにない程に、赤く、あかく、ふかく。
瞳の色を鮮やかに、それと同時に尚深く。
彩り、軋ませる蛍に杏寿郎は息を呑んでいた。
目まぐるしく体の周りを覆いうごめく影鬼は、細い糸のような形をしている。
それが何十、何百、何千と絡まりまるで一つの生き物のように何かを造り上げていた。
それが何かはわからない。
ただ蛍の体には一切に触れずに、杏寿郎の体にだけ執拗に接触しているのには理由があるはずだ。
怪我の手当てか。
(しかし、そんなもの)
蛍の異能が、治癒能力を見せたことはない。
他人の精神世界に潜り込むことができる程の力を持つが、他者の肉体を治す術は持っていないはずだ。
だとしたら何をしているのか。
ぐしゃり
不意に耳についた、腐った果実を潰すような音。
唖然と目の前の蛍だけを見ていた杏寿郎の視線が、音を辿るように下がる。
「──!」
表情が強張る。
見えたのは、ぼたぼたとバケツを返したような大量の血を落とす蛍の体だった。
まるで自ら切り離すように、方腕がもぎり取れていた。
落下する前にそれを受け止めたのは無数の影糸の波だ。
瞬く間に蛍の腕を飲み込んで、更に大きく膨らんでいく。
腕だけではない。
その千切れた肉の組織に、浮かぶ無防備な足に、蛇のように絡んだ影糸が浸食していく。
うぞうぞとうごめき進み潜り込んでいく。
それはまるで。
(蛍自身を喰らっている…ッ?)
自らの肉体を喰わせる自傷行為だ。
「蛍。何をしてる」
「……」
「何をしているんだ」
見開く鮮やかな緋色の瞳は、杏寿郎に向けながら見ていない。
深く谷底のように避けたその闇から、更に鮮やかな赤が溢れて──ぽたり。と。
「! 蛍…ッ」
真っ赤な血を流した。