第34章 無題
──ズァッ
瞬く暇もなかった。
「ッ!?」
杏寿郎を囲うように、膨れ上がった影の波が溢れ立つ。
ここは蛍の影の中だ。
至る所全てが蛍の手であり足であり、術である。
それを体現するように、四方八方から膨れ上がった影が一斉に杏寿郎の体を覆った。
「何を…ッ」
蛍の影が己に牙を剥くとは思っていない。
だとしたらこれは何か。
戸惑う杏寿郎が真っ先に感じたのは、腹にある異物の感覚。
視線を下ろす。
猗窩座によって穴を空けられた腹部には、その鬼の腕が深々と突き刺さったままだ。
杏寿郎に逃れようのない致命傷を与えた腕だが、同時に引き千切り逃げた猗窩座によって、その腕は腹部の止血の役目も担っていた。
でなければ大穴が開いた腹部から一気に血は流れ出し、数分と経たずに杏寿郎の命を奪っていただろう。
猗窩座の腕と、蛍の影鬼。
その二つによる止血で、杏寿郎は未だ命を取り留めていた。
その腕を、影が覆い尽くす。
ぼきん、ごきんっと骨を砕くような鈍い音に、腹部に走る振動。
ぐねぐねとうごめく影ばかりが視界を覆って、己の腹部と猗窩座の腕は見えない。
それでも鈍い触感の中でも、腹部の異物の感覚が消えゆくのを薄らとだが感じることができた。
ぎちぎちに肉を圧迫していた猗窩座の腕が砕かれていく。
ごきゅ、ごりん、と耳に届く嫌な音。
それはまるで得物を咀嚼する獣の立てる音のような。
(まさか──)
は、と杏寿郎の視線が上がる。
目の前の蛍を凝視すれば、その目はこちらを見ていなかった。
否。見ているが見ていない。
視点の合わない蛍の目は、見えない何かを見るようにこちらを向いている。
その目が、きりきりと鋭く縦に割れている。
血管が皮膚を盛り上げ、牙を尚も鋭く尖らせ、びきびきと四肢の間接を強制的に戻していく。
同時に顔を覆っていた痛々しい火傷跡が、まるで時間を逆再生するかのように消えていった。