第34章 無題
「私より…自分を心配してよ…自分を見てよ…」
くぐもる中でも、確かに聞こえた。
蛍の弱々しい主張だ。
蛍の言い分はわかる。
それでも譲れない思いはあった。
蛍が心配を募らせるように、自分にとっても蛍の安全は死活問題なのだ。
「っ…だが君は鬼だ。陽に当たれば死んでしまう。俺には大事なことだ、後回しになんてできない」
「っじゃあ」
当然のことだろうと声量を抑え気味に伝えれば、くぐもる声が震えた。
「自分のことはいいの? あばらを折って、片目を失くして、お腹に穴を空けてもいいの?」
「…そうは、言ってない」
「言ってるよ」
顔を覆う両手がぎゅっと拳を握る。
鋭い爪を持つ指先は、容赦なく蛍の皮膚に食い込んだ。
「鬼の私を大事にしてくれるなら、人間の自分をもっと大事にしてよ。私の大切な人なの。初めて人生を預けたいって思えた人なの。私の大切なひと、を」
「蛍」
「蔑ろにしないでッ」
じわりと微かに血が滲む。
咄嗟にその手に触れようと伸ばした指先が、触れた瞬間。
反射のように蛍の顔が上がり両手が弾く。
ぱしりと痛みを伴わない仕草で手を打たれても、杏寿郎は動かなかった。
否。動けなかった。
周りが血鬼術の世界だからか。
目の縁いっぱいに溜まっていた蛍の涙が、弾ける動作で宙を舞う。
シャボン玉のような、大粒の真珠のような。そんな涙の美しさよりも、その涙を称える彼女の顔に目が逸らせなかった。
「杏寿郎の、ばか」
ひくりと、えずくように喉が震える。
その度に顔はくしゃりと歪み、牙の見える口が戦慄く。
ぼろぼろと零れ落ちる涙に限界はなく、瞬き一つで視界を覆った。
「ばか…っなんで、こんッな…に…ッ馬鹿だよ…馬鹿ッ」
罵る言葉さえ、身を切り裂くような悲鳴に聞こえた。
初めて蛍の泣き顔を見た時は、こんなにも綺麗なものがあるのかと感嘆したというのに。
壊れたレコードのように繰り返す蛍の泣き顔は、ぼやけていた現実を叩き起こすようだった。