第34章 無題
「く…ッ!」
口を開ければ、ごぽりと泡が立つ。
それでも息ができるのは、此処が影鬼の"中"だからだ。
「ッ蛍!」
今更そんなことを確認する必要もなく、また気にする余裕もなかった。
視界を覆う気泡の波を片手で払って、この世界の主を捜す。
陽光に焼かれた。
あれは陽に炙られた音だった。
怪我を負ったのか。
こんなに盛大な術を使っては、まだ完治もしていないというのに。
「蛍ッ!!」
足場はない。
それでも蛍を捜す為に空(くう)を蹴れば、体が前に進む。
動けなかったはずの手足が動いた。
出なかったはずの声を張り上げた。
「ほ──」
潰れた左目は未だ見えない。
それでも見えた。
何もない海の底のような揺らぐ世界に、浮く彼女の姿を。
両手で顔を覆い、表情は読み取れない。
杏寿郎同様、波に漂うようにその場に佇む蛍は普段の成人の姿をしていた。
顔を覆い、俯いて。
声もなく其処にいる。
「…っ蛍」
顔を覆う両手の左側面が、赤黒く焼け爛れている。
不安は的中し、すぐにそれは後悔へと変わった。
やはり焼かれたのだ。
本来なら条件反射ですぐに蛍の身を隠すことができた。
それができなかったのは、自身の体が限界を迎えていた為だ。
「陽に焼かれたのか…っ痛みは? 此処は影沼の中か。それでも長くは保たない。すぐ安全な所へ──」
「…んで…」
触れられる距離に近付いても躊躇した。
焼け爛れた皮膚に触れようものなら、蛍に痛みを与えるだけだ。
触れたくても触れられない。
ぎりぎりの隙間を残して手持ち無沙汰に手を宙に置く。
それでも忙しなく動く杏寿郎の声を止めたのは、くぐもる小さな小さな声。
「なんで…自分の心配、してくれないの…」
蛍の声だ。