第34章 無題
「俺は、大丈夫だ。もう影鬼の発動を止めていい」
「っ…」
羽織で包んでいる為に、蛍の顔は見えない。
少しでもここから身を出せば、朝日は容赦なく蛍の体を焼くだろう。
見ることのできない温もりを、肌で感じ取る。
それでも影鬼で包まれている皮膚は指の先まで覆っているらしく、服一枚隔てたような感覚が伝わってくるだけだ。
それがなんだか、もどかしく感じた。
「蛍」
名前を呼んで催促しても、影鬼が消える気配はない。
腕の中で一際大きく震えを感じさせた温もりは、大きな動作を見せた。
羽織の中でもわかる。
振り被っているのは小さな頭だ。
「っだめ…きゅうごはんが、くるまで」
予想した通り、羽織の中から聞こえたくぐもる声は、幼いながらに頑なだった。
「此処は町の外だ。隠達が駆け付けるまで、時間がかかる」
「だったら、それまでしけつする。じゅつはとかない」
「無理だ。今の君では、先に体に限界がくる。折れた骨も完治していないだろう」
「したよ」
「…わかり易い嘘だな」
「した…っいたくない」
証明するかのように、杏寿郎にしがみ付く手の強さが増す。
「わたしは、いたくないよ。いたくない」
何度も繰り返す、震える拙い声。
嘘であることはあまりに明白で、だからこそいじらしくて。
自然と口角が緩むのをそのままに、日輪刀を話した右手をゆっくりと上げた。
痛みは然程ない。
それも影鬼の影響なのだろうか。
「そうか」
そっと、震える後頭部に掌を包んで添える。
撫でるように柔からな髪を梳けば、小さな温もりがぎゅっと胸に押し付けられた。
血の臭いがする。
羽織の中は、更に濃い血の臭いが充満しているだろう。
負傷した鬼である蛍にとっては、耐え難い空腹と食欲を刺激するはずだ。
なのに子供のように抱き付く蛍は、体と声を震わせるばかりで襲ってくる気配はない。
荒い息も、唸るような喉鳴りも、欲に目がくらんだ鬼が発する気配の一つも感じられない。
「…そうか」
それがどれだけ、蛍の心が人間だと証明するに足ることなのか。
奇跡のような必然を五感で感じ取りながら、杏寿郎はただ優しく頷いた。