第34章 無題
(嗚呼、)
あたたかい。
母のただその一言だけで、歩んできた道全てが許された気がした。
その一度の微笑みだけで、乾ききっていた砂地の心が満たされた気がした。
しかしそれも束の間のこと。
微笑む母の姿が、朝日の光に包まれゆく。
きらきらと髪を、顔を、体の輪郭を煌めかせて。
眩しさに目を細めれば、水に溶ける絵画のようにじんわりと輪郭はぼやけた。
淡く、光り。ぼやけて、消える。
泡沫のような儚さで見えた母の最後の顔は──
(──…ぁ)
微笑みを潜め、視線を下げる。
ほんの少し顔に影を落として、何かを見つめるように。
決して近くはない、ぼやけた視界のはずなのに、不思議と母の表情は拾い取れた。
喜びとも悲しみとも取れない、何か思いを残すように。それは杏寿郎の腕に抱く小さな命を、静かに見つめていた。
重力に従い額を濡らす血が、杏寿郎の瞼を重くする。
刹那。一度瞬いた先に、もう母の姿はなかった。
「……」
それでも驚くことも、悲しむこともなかった。
そのまま自然と目で追ったのは、亡き母が見つめた先。
羽織に包まれ隠れている、この腕の中の温もりだ。
炭治郎に、伊之助達に伝えなければならなかったことは告げられた。
その間、邪魔することなく静かに腕に抱かれていた蛍は、常に影鬼を発動し続けていた。
服の下で杏寿郎の肌を覆い、物理的に怪我をした箇所からの出血を止めている。
それでも治癒能力がある訳ではない異能は、一時しのぎにしかならない。
尚且つ、羽織で隠しているとはいえ、逃げ場のない朝日の中だ。
蛍自身も、未だ体の完治には至っていない疲弊状態。
そんな状態で大の男の体全てを覆い止血し続けることが、簡単なことではないことは想像に難くない。
「……蛍」
ようやく呼べる。君の名を。
腕の力を僅かに緩めて呼べば、微動だにしなかった温もりが小さな反応を見せた。