第34章 無題
は、と顔を上げる。
ぼやける視界に、眩い朝日の結晶が舞う。
その中心に見覚えのある姿があった。
「っ──」
最後に見たのは、もう十年も前だ。
それでも忘れはしない。
忘れたことなどない。
撫子色の着物に身を包んだ、赤い帯の女性。
絹のような黒髪を緩く一つに束ね、いつも右肩に添えていた。
切れ長の瞳は、火を灯した名を表すような朱色を宿している。
母──煉獄瑠火、そのひとだ。
炭治郎の遥か後方。
朝日が照らす光に髪の、顔の、体の、輪郭を淡く光らせながら。
そのひとは確かに其処に立っていた。
「は──」
ははうえ、と。言葉にならない声が名を紡ぐ。
血を吐き出す喉では、届けられるだけの声はもう出せない。
それでも微かな吐息のようなその声が、聞こえているかのように。
朝日の中に立つ母が、微笑んだような気がした。
立派に、できましたよ
聴こえるはずのない声を聴いた。
火を宿す瞳を細めて、朝日の優しい光に包まれるような、微笑みを零して。
確かに、母がそう告げてくれたような気がした。
十年前は聞くことはできなかった。
あの夏の日の約束の先を。
「……」
血の滲む口元が緩む。
凛々しい眉尻が柔く下がる。
幻なのかもしれない。
自分の願いが、欲が、都合よく見せた幻影なのかもしれない。
それでも確かに、杏寿郎の心を揺らすだけのものがそこにはあった。
乾き続けていた母への思いを潤すだけのものが、そこには息衝いていた。
十歳の無垢な少年の笑顔に、戻すだけの。
確かなものが。