第34章 無題
少年の涙がまるで感染したように、杏寿郎の視界が微かにぼやけた。
涙を流している訳ではない。
額を、瞼の縁を濡らしているのは、涙とは程遠い。真っ赤な血だ。
(…──母上)
赤い雫は縁をなぞるだけで、眼球を濡らしてはいない。
なのにぼやけてしまう視界は、陽の光さえ淡い結晶のように見えた。
(俺は、ちゃんとやれただろうか)
世界が眩く、視界を遮る。
ぼやける世界の中で、気付けば問いかけていた。
同じ大人になろうとも並べた気はしない。
近付けた気もしない。
いつまでも自分にとっては果てしなく遠く、大きな存在だった母に。
(やるべきこと、果たすべきことを全うできましたか?)
こんな子供染みた問いなど、もう口にはできない歳となった。
口にしたところで答えをくれる母もいない。
それでも願う。
もし母がこの場にいたのなら。
己の未来を涙して案じてくれた、母にこの生き様を見せられたのなら。
もう心を鉄にして、あんな涙ながらの使命を吐かせずに済んだだろうか。
この息子なら大丈夫だと、安心させられただろうか。
走馬灯のような中で感じた、母、瑠火の感情の欠片のようなもの。
それも所詮は憶測でしかない。
それでも知っていた。気付いていた。
数多の命を取り零して、追い越して、現実を突き付ける世界の中で大人になったのだから。
同志と呼ぶべき対等な者達と肩を並べて、戦場を駆け抜けたのだから。
鬼が蔓延る地獄のようなこの世で、人を歩ませるものは何も希望だけではない。
憎悪や復讐に塗れた思いもまた、人を突き動かす原動力となる。
だからこそ知っていた。
気付いていた。
自分の礎となった夏のあの日の母との約束は、導(しるべ)ともなり、呪いともなることを。
(…母上…)
だから今、亡き母に問いかけてしまったのだろうか。
────。
炭治郎の泣きじゃくる顔しか捉えていなかった視界が、ぼやけた"何か"を見つけた。