第34章 無題
「…っ」
杏寿郎に身を寄せたまま、隊服を握り締めた幼子の手がじとりと汗を掻く。
炭治郎に告げる杏寿郎の言葉一つ一つが、その心を抉るようだった。
知っているからだ。
その言葉は、思いは全て、杏寿郎自身が経験してきたことだと。
自身の弱さに、不甲斐なさに、幾度となく打ちのめされた。
それでも歯を食い縛って前を向いてきた。
誰かに支えられる訳でもなく。
一人で、守るべきものを見つめて、進んできたのだ。
痛みを知っている。
苦しさを知っている。
だからこそ今の自分が在るのだと、知っている。
杏寿郎の吐く思いは全て、杏寿郎自身が歩んできた軌跡だ。
「俺がここで……止まることは、気にするな」
幼い蛍の手が、きつくきつく握り締められる。
その小さな温もりを腕に抱いたまま、杏寿郎は一瞬口を噤んだ。
明白な言葉は形にならず、僅かに声を萎ませる。
これは炭治郎や伊之助達に向けた言葉であり、蛍に向けたものではない。
聞かせたいのかと訊かれれば否定できる。
蛍の心に少しでも亀裂を入れるようなことは、聞かせたくなかった。
鬼の頑丈な身体で守っている蛍の奥底には、繊細な人間の心がある。
己を叩いて叩いて立ち上がってきた杏寿郎だが、同じものを愛おしく想う女性に感じさせたくはない。
「……」
それでも。
今在る己の時間の中で、必ず炭治郎に伝えなければならないことがある。
これから先、自分よりも長い時間を鬼の妹と共に歩むであろう、自分や蛍よりも幼い少年にこそ。
一つ、息を繋ぐ。
一度下げた視線を上げて、杏寿郎は血で染まる口元を緩めた。
「柱ならば、後輩の盾となるのは当然のことだ」
炎柱として。
鬼殺隊を支える九つの一つとして。
そこに迷いはない。
「柱ならば、誰であっても同じことをする。若い目は摘ませない」
嘘はない。