第34章 無題
日輪刀を取り落とした手が、そっと蛍の後頭部に触れる。
強くはない。
それでも確かな力で、蛍の頭を己へと押し付けた。
「小さく。体を。俺の、体に隠れるように」
短い言葉だったが、杏寿郎が言わんとしていることは理解できた。
自分の意思を無視した影鬼が、杏寿郎の下まで運んだことも。
視界いっぱいには杏寿郎の真っ黒な隊服だけで、陽光など見えない。
それでも肌が感じる。
第六感のようなものが悪寒を走らせる。
命を奪うあの光が、すぐ傍まできていることを知らせるように。
「…っ」
わかっている。
そんなことは。
だからなんだと言うのだ。
己の命を奪うものよりも、今正に杏寿郎の命を奪おうとしているものの方が確実なものなのに。
「杏寿…ろ」
目の前の隊服を縋るように握る。
鼻孔にきつい程の濃い血の匂いが刺激したが、そんなものは蛍の食欲を煽るに足り得なかった。
「ッ…ぅ…」
寒気を感じるかのように、指先が、喉が、震える。
触れてようやく実感したのだ。
杏寿郎の体を蝕む、取り返しのつかないものの大きさを。
今まで嗅いだことがない程に、夥しい血の量が蛍の全神経を逆立てた。
「蛍」
それでも杏寿郎の声はただ静かにそこに在った。
名を呼ばれただけでも、彼の意向はわかる。
震える唇を噛み締めて、蛍は零れそうになる嗚咽を呑み込んだ。
「杏寿郎…血…止める、から…待ってて」
「俺のことは…いい。それより、体を」
「っだめ」
荒げそうになる声を抑えて、目の前の隊服に強く縋る。
蛍のその体は、言われた通りに徐々に萎み幼子へと変貌していった。
「だめ…っ」
同時に、その体から滲み出る影が杏寿郎を覆っていく。
早く止血しなければ。早く。