第34章 無題
何をどう思ったのか。
思考回路は上手く回っていなかった。
ただ警告音を激しく打ち鳴らす能が、絞り出した結果だった。
食い縛った口を開く。
こぽりと血が溢れた。
「──…おいで」
促すように、誘うように。
杏寿郎が呼びかけた声は、細く小さなものだった。
片目しか見えない世界で、蛍だけを見つめたまま。
額から流れる血が潰れた瞼の上を下り、開かなくなった唇を横切り、顎を伝う。
空は白み、陽光を呼ぶ。
世界が明るく照らされれば、必ず生まれ出る。
光と影。
対となるように必ず存在するそれは、杏寿郎の座り込んだ足元にも薄らと出来上がっていた。
──ぽた り
顎を伝った血が、己の影に落ちる。
瞬間、ぞわりと杏寿郎の影が震えた。
「──!?」
瞬く暇もなかった。
唖然と杏寿郎を見ていた蛍の視界が反転する。
強い力で引き摺り込まれたのは己の影の中だ。
どぷんっと耳に沼に落ちるような水音が響く。
肌で感じる。
これは影鬼だ。
なのに自分の意思など意に介さず、ひとりでに蛍の体を沼へと引き摺り落とし進んだ。
驚く口の端から、ごぽりと気泡が舞う。
「ッは…げほっ!」
次に息を吸い込んだ時、再び眼下は反転した。
タイミングを見誤った気道が咽る。
影から押し出された体をうずくまらせたまま嗚咽する蛍の頭に、そっと何かが触れた。
「…蛍」
沼のようで沼ではない。
体は濡れおらず、口内に何か詰まっている訳でもない。
濁流のような急な力に流されたが、蛍の体を熟知しているように痛みの少ない部位を押し流した。
すぐさま呼吸を取り戻した蛍は、目の前で鼻を強く刺激する匂いに息を止めた。
濃い、濃密な血の匂い。
今では嗅ぎ分けることもできるようになった。
杏寿郎の血の匂いだ。
「杏…」
見上げたすぐ傍に、彼がいた。