第34章 無題
「ぃ…いき…こきゅう、して…っまえした、みたいに…しけつ…っ」
辿々しくも、必死に蛍が呼びかける。
震えるその声に無言を通したまま、杏寿郎の腕は小さくなった少女の体を抱く。
羽織で包むように身を隠されて、蛍は明るい世界が昇ったことを悟った。
「逃げるなァアアッ!!」
視界を遮断された羽織の中で、どくどくと聞こえるのは鼓動の音。
杏寿郎の命の音なのか、それとも自分の焦燥の音なのか。
わからないままでいる蛍の耳に響いたのは、決死の炭治郎の叫びだった。
「いつだって鬼殺隊はお前らに有利な夜の闇の中で戦っているんだ!! 生身の人間がだ!!」
無限列車の屋根の上で、魘夢と対峙した時も緊迫した炭治郎の叫びを聞いたが、それとは比にならない。
ここまで乱れ、震える怒号は聞いたことがなかった。
「傷だって簡単には塞がらない! 失った手足が戻ることもない!! 逃げるな馬鹿野郎!…ッ馬鹿野郎!! 卑怯者ッ!!!」
その怒号が蛍の胸に突き刺さる。
自分の体では見慣れた再生など、この目の前の体では起こらないのだ。
奇跡などない。
人間に皆平等にあるものがたった一つの命であり、遅かれ早かれ必ず訪れる死。
どんな者でもそこに優劣はない。
無垢な赤ん坊であろうとも、百戦錬磨の戦士であろうとも。
「お前なんかより煉獄さんの方がずっと凄いんだ! 強いんだ!! 煉獄さんは負けてない!! 誰も死なせなかった!!」
猗窩座の姿はもう林の奥で見つけられない。
それでも炭治郎は叫び続けた。
認めるものか。
納得などするものか。
例え身を焦がし尽くそうとも、有言実行を果たしたのは杏寿郎の方だ。
「戦い抜いた!! 守り抜いた!!!」
脇目もふらず逃げ出した猗窩座は、杏寿郎を鬼にすることも、弱者を殺すことも、そして蛍を連れ去ることもできなかった。
散々大口を叩いておいて、いざ自らの命が危険に晒されるとすぐに逃げ出す。
「お前の負けだ…!!」
そんな者を勝者などと言うものか。
「煉獄さんの勝ちだッ!!!」