第34章 無題
(絶対に放さん)
血が滲む程強く噛み締めた唇の隙間から、熱い息が零れる。
目の前の咆哮する猗窩座さえも双眸に映すことなく、杏寿郎は依然として何もない一点を見据えていた。
全集中の常中などではない。
刃を握った拳から心の臓まで、体中を駆け巡る血液を灯火のように沸騰させる。
身体を燃やせ。心を燃やせ。
常中の更に高みへ。
全ての神経が研ぎ澄まされ、熱を高めた体は貫通された腹の痛みさえ忘れさせた。
ただ一つ。
ただ〝そのこと〟だけを目的とした杏寿郎は、凶暴な悪鬼を前にしても尻込みなどしなかった。
一つだけだ。
望むのは、
(お前の頸を斬り落とすまでは!!!)
この鬼の頸を斬り落とすこと。
「退けぇええぇええええ!!!!」
「ああぁああああああッ!!!!」
猗窩座の叫びに初めて反応を示した杏寿郎が吼える。
びりびりと空気を震えさせる程の威圧は、渾身の力で握りしめていた刃を呻らせた。
ざしゅ、と肉を断ち切り皮膚を裂く。
更に数㎝、猗窩座の頸に食い込んだ日輪刀がとうとう頸椎に到達した。
頸を凡そ半分、断ち切られた猗窩座の喉からごぽりと血が溢れ出す。
「…っ」
一発触発。
触れる前に、近付くことすらできない。
息を呑み黙って見ているだけの伊之助の背中に、弱る同胞の声が届いた。
「伊之、助…っ伊之助、動けッ! 煉獄さんの為に動けーッ!!」
伊之助よりも更に痛手を負った炭治郎だ。
手には日輪刀を握り、もつれる弱い足取りで、それでも走っていた。
杏寿郎の為に。
鬼の頸を斬る為に。
はっとした伊之助の顔が上がる。
振り返るような素振りを見せたのは一瞬で、すぐに力強く駆け出した。
杏寿郎が背中を向け手前に立っているが、伊之助の身体能力を持ってすれば問題はない。
〝獣の呼吸──壱ノ牙〟
地を蹴り飛躍した体が真上に飛ぶ。
軽々と杏寿郎を飛び越え、二本の刃を構えた伊之助は猗窩座目掛けて落下した。
ぎざぎざの荒れた刃を二本、その頭部に突き立てるように構える。
杏寿郎に押さえ付けられ逃げ場を失った猗窩座相手なら、近付けば死しかないと感じていた伊之助にも勝機はあるはずだ。