第34章 無題
早くこの男を殺して、この場を去らなければ。
杏寿郎を鬼にすることに固執し、殺しは惜しいと感じていた猗窩座からその余裕が掻き消える。
一撃目は防がれたが、二撃目はそうはいかない。
そう、再び拳を振り上げようとした。
「っ!?」
しかし猗窩座の思い描いた通りに、拳は空を切らなかった。
右腕は杏寿郎の鳩尾を貫いている。
左腕は杏寿郎自身の手に鷲掴まれている。
(腕、が…抜けん!?)
そのどちらもが微動だにしなかったのだ。
左手首は骨が折れそうな程の力で掴まれている為、まだ動けない理屈は多少なりともわかる。
異常なのは鳩尾に貫通させた右腕だった。
動けないのだ。
屈強な筋肉の圧迫により、杏寿郎の細胞を打ち抜いた腕は鋼の溶接のような状態により身動きができなかった。
いくら抜こうとしても肉の中から腕を引くことができない。
相手は人間だ。
再生も利かない、ただの人間の体だというのに。
打ち抜かれた腕を引き抜かれようとする痛みは、想像を絶するはずであるのに。
凝視する猗窩座の目に、血だらけの杏寿郎の表情が映る。
その目は猗窩座を見ていなかった。
何もない空(くう)を真っ直ぐに見、何かを捉えているようで捉えていない双眸は限界まで見開いている。
左目は潰れ、額から口から溢れる血でほとんどがべっとりと真っ赤な鮮血に濡れている。
なのに唯一見える右目だけは、ちりちりと瞳孔の中で何かを燃やしながらただ一点を見据えているのだ。
〝逃がさない〟
視線は合わないというのに。
無言であるというのに。
その強い強い意志が伝わってくるようだった。
「ッ…!」
太陽の目覚めを意識した時とは異なる悪寒。
それでも確かに、猗窩座の背筋を焦燥で震えさせた。