第34章 無題
本来ならここで切ることもできた会話だ。
それでも吞み込んだ感情の欠片は、瑠火の胸の内側を熱く打った。
「……」
「?」
無言で手を伸ばす。
招くように腕を広げて差し伸べた手を、杏寿郎は不思議そうに見つめ返した。
幼い頃は触れ合う機会も多かったが、兄として、嫡男として、いずれ炎柱を背負う者として杏寿郎が自覚するにつれ。
また瑠火の病状が悪化し重くなるにつれ、自然と減っていった温もりだ。
それでも愛情を注ぎ、注がれ育った子。
優しい母の眼差しに惹かれるように膝で立つ。
おずおずと、いつもの潔さを隠して歩み寄る杏寿郎を、瑠火は静かに招き入れた。
骨と皮になってしまった薄い腕で、我が子を抱く。
両腕で胸に抱けば、小さいと思っていた杏寿郎の体は逞しく、予想以上に大きなものだった。
それだけ成長したのだと嬉しくなる半面、まだこの脆弱な腕に抱けるだけの子供だということに切なさを感じる。
大人と呼ぶには程遠い。
本来なら、無邪気にただ生きるだけで許される子のはずなのに。
「…私は…もう長くは、生きられません」
それでも託していかなければならない。
残していかなければならない。
自分の命の残量を計り切れることができる今だけは。
「強く、優しい子の母になれて幸せでした」
腕に抱いた子を想う。
傍らで眠る子を想う。
短い命の灯火を抱えながらも、己の人生に後悔したことはない。
誰とも熱を交わさず、一人細々と生き永らえるだけよりも。
この体に熱を灯し、交わし、繋げ、結んでいった今の人生の方が何よりもかけがえのないものとなったからだ。
この道を選んでよかったのだと、腕の中の温もりを感じ想う。
「──…」
視界が滲む。
熱い雫が目の縁を滑り、涙を流していることを知った。
いつぶりだろうか。
夫である槇寿郎の前で流した涙はあれど、我が子の前だけで流した涙はついぞない。
あるとするならば、その命がこの世に生まれ初めて腕に抱いた時だ。
一体あと何度、この腕に我が子を抱けるのだろう。
一体あと何度、愛を伝えることができるのだろう。
胸の底で蓋をしたはずの感情の欠片は、言葉にならずとも形を成して瑠火の頬を濡らした。