第34章 無題
ただ愛を持つだけの女性(ひと)ではなかった。
世界を見定める冷静な思考の下には、ひたすらに家族を愛する心があった。
葛藤を生んで、後悔を抱いて、己を叩き上げ、弱音を涙に変えた。
あの父が生涯で愛した女性だ。
剣を握るだけの強さではない。
真っ直ぐに伸びる竹のような芯を持ちながら、それを決して折ることなく絶え間ない愛情も生んでくれた。
父に比べ感情の起伏が乏しくとも、息子だからわかる彼女の顔が幾つもあった。
弱さを持つ人間味を忘れず、それでも尚最期まで誇り高く強く在った。
そんなひとの息子になれたことが、生涯をかけて愛されたことが、どんなに光栄なことなのか。
尽きぬ感謝を全て言葉にすることなどできない。
「おおおぉおぉぉおおおお!!!!!」
命を削る杏寿郎の体に、上弦の参を脅かす程の力を生んだのは紛れもない瑠火の想いだった。
誇り高くあった貴女が託してくれた言葉だ。
涙を流して、想いに鞭打ち繋げてくれた言葉だ。
『うん。杏寿郎が繋いだんだよね。瑠火さんの思いを』
もうこの身にその温もりを感じることはできない。
失ってしまった最愛の母(ひと)から託されたものを、自分は確かに繋いでいたのだと。それを教えてくれたのもまた、これから先失う訳にはいかない最愛の女性(ひと)だった。
走馬灯のように垣間見た母の姿から、あの夜見せてくれた蛍の笑顔を思い出す。
呪縛であってもいいと感じていた母との思い出を、まっさらなものに変えてくれた、あの蛍との愛おしい一夜のことを。
渾身の咆哮を上げて、握る刀の柄に力を込める。
ずぷりと、ほんの僅かだが杏寿郎の刃が猗窩座の頸の肉と骨の先へと食い込んだ。