第34章 無題
──ちり ん
肌にしとりと汗を滲ませるような、夏のあの日。
揺れる風鈴の音を微かに耳にしながら、母の涙と想いに触れた。
「──ッ」
力が抜けかけていた手が、折れんばかりに日輪刀の柄を握る。
みしりと太い血管を浮かせて、振り被る動作もなく叩き付けるように刃は牙を剥いた。
「が…ッ!?」
赤々と燃えるような杏寿郎の刃が、猗窩座の頸へと食い込む。
まるで硬い岩肌に叩き付けたかのように、刃は僅かしか鬼の頸を削らなかった。
それでも食い込んだ。噛み付いた。
ぶしりと亀裂を生んだ頸から血飛沫が上がる。
(──母上)
猗窩座の叫びに一瞬、垣間見えた走馬灯のような過去。
夢幻のようで、確かに存在したあの日の出来事。
あの時は幼い子供で、死を覚悟した母の想い全てを汲むことができなかった。
優しい腕に抱きしめられて、あたたかい涙を肌で感じて、同じに瞳を震わせることしかできなかった。
唇を噛み締め、涙を流すまいと堪えることしかできなかった。
今ならわかる。
母には到底及ばないが、歳を重ね、場数を踏んで。沢山の命を救い、また同じに幾つもの命を見送って。
息の仕方さえ忘れそうになる絶望を知って、泣きたくなる程に眩い未来を抱く希望を知って。
母と同じに"大人"と呼べる自分となった今なら。
例え共に過ごした時間は少なくとも、沢山の愛をくれた母だ。
触れ合う機会は少なくとも、何年も心の支えとなる言葉を、想いをくれた母だ。
病弱な体の中に、何にも折れぬ強い芯を持つ。
時に柱である父でさえも折ることのできない、それが母だけにある強さだ。
その芯を最後まで曲げんとしながら、静かに涙した。
細い細い腕で強く抱きしめてくれた。
頼みます、と託された言葉の下に、どれだけの想いが溢れていたのか。
隠しきれなかったあの涙が、どれ程の大きな想いで生まれたものなのか。
(俺の方こそ、貴女のような人に生んでもらえて光栄だった)
それを愛と呼ばずに、なんと呼ぶ。