第34章 無題
「く…ッ」
真っ先に体が治癒を始めたのは右肩だった。
蛍にとって全集中と同じ道理のようなもの。
意識をそこだけに集中して、血管を、骨を、筋肉を、その部位だけの活動に重んじる。
そうすることで望んだ体の一部を優先的に再生することができた。
ずるりと、右腕だけの力で這いずる。
僅かな距離だったが初めて進むことができた。
ただし体を動かせば、全く再生が進んでいないまま放置状態の他の部位が激痛を訴える。
「ゥう"…ッ」
それでも歯を食い縛り、蛍は進んだ。
地面に爪を立て、頬を土に塗れさせ、睨み上げるように土煙を凝視したまま。押し進み、少しずつ。
杏寿郎は。
彼は。
──ひゅおり
強い風が吹いた。
分厚い幕のようだった黒い土煙を、空へと押し流す。
徐々に薄まる土煙に、その中で佇む二人の人影をようやく見つけた。
「! 杏──」
よく知るそのシルエットを見逃すはずがない。
立っている。
倒れていない。
人影は二つだったが、その事実に蛍の声が弾むように上がる。
「寿…」
だがそれは最後まで形になる前に途切れた。
空を覆う闇。
荒ぶる土煙と風。
それでも見通す鬼の目で捉えたもの。
赤だ。
真っ赤な血が、見覚えのある顔に、羽織に、刀を握る手に飛び散っている。
「…かはッ」
濁る吐息のような音を零して、よく知る闊達な口から血反吐が落ちる。
今にも振り下ろそうとするような姿勢で、日輪刀を振り上げているのは杏寿郎だ。
そこに向き合う猗窩座の突き出した腕が──
深々と隊服を突き破り、杏寿郎の腹を貫通していた。
「きょ、う…ッ」
ひゅっと蛍の息が上がる。
声が引き攣り、痙攣するように口角が震えた。
急激に酸素を奪うように息ができなくなる。
例え死とかけ離れた生活を送っていたとしても、本能でわかる。
猗窩座のその拳は、致命傷と言えるだけの一撃だ。