第34章 無題
傷付けてしまった。
悲しませてしまった。
自分が人間であるが故に、負傷した己の体の傷が蛍の心の傷となってしまう。
そんなことは、わかっている。
それでもまだ自分は五体満足でいる。
視野は狭くなったが、まだ彼女の生きる世界を見ることができる。
想いを形にして声に出すことができる。
この腕にその体を抱き、いつもと変わらない笑顔を向けることができる。
彼女を、この手で守ることがまだできるのだ。
「ふ──…」
長く、静かな呼吸で息を整える。
負傷した体に血を巡らせる為に。
指の先まで、眼球や耳の細部にまで。
巡り巡らせ躍動を促し、猗窩座の動きを全て見極め斬り伏せる為に。
細く長く繋げた呼吸を、更に引き延ばしていく。
限界を超えた先まで。
吐いて、吐いて、吐き続けて。
細く細く伸びた呼吸が、静寂の中に消える。
──ゴオ…!
静寂が闇夜を包む。瞬間、それは闇を振り払うような一つの火柱として燃え上がった。
「…杏寿郎…お前…」
猗窩座の目に映る杏寿郎の体が炎に包まれる。
激しく揺らぎ燃え上がるそれは、磨き上げた上弦の参の目にだけ見える杏寿郎の闘気だ。
魅入るように見つめる猗窩座の口から、力無き音が零れ落ちる。
「ッ俺は俺の責務を全うする!! 此処にいる者は誰も死なせない!!!」
咆哮のような宣言だった。
両手で握った日輪刀を反り返るようにして、己の背中に棟が当たるように構える。
腰を低く、歩幅を縦に広げ、睨む先は一点のみ。
(一瞬で多くの面積を根こそぎ抉り斬る…!)
長丁場で不利なのは人間側にしかない。
それは杏寿郎も身をもって理解していた。
だからこそ、この一撃に全てを懸けるのだ。
「素晴らしい闘気だ…それ程の傷を負いながら、その気迫。その精神力。一部の隙もない構え…!」
猗窩座の肌を、びりびりと駆け抜けていく炎の闘気。
触れてもいないのに、距離のあるそこから届く気迫は鬼の肌を刺激し熱くさせた。
燃え上がる火柱をすぐ傍で感じるように。