第34章 無題
「君に比べたら、俺はまだまだ軽傷だ」
そんな彼女の瞳だから愛おしいのだと、杏寿郎の口元に優しい笑みが浮かぶ。
「っ…ち…」
違う、と蛍は頸を横に触れなかった。
こびり付いた血をものともしない、あたたかい杏寿郎の笑顔を前にして。
自分を"鬼"という枠ではなく、彩千代蛍ただ一人の女性として見てくれている。扱ってくれている。
その杏寿郎の想いを否定することになってしまう。
無言で青褪めた蛍の顔が、泣きそうに歪む。
「大丈夫だ。君を鬼舞辻無惨の下になど連れて行かせはしない。俺が守る」
「きょう、じゅろ」
「骨が繋がるまで、ここで安静にしていてくれ。もしまだ術を使える余力があるなら、自分を守ることを最優先にして欲しい」
「…ッ」
「大丈夫だ」
ゆっくりと、なるべく振動が伝わらないように蛍の体をその場に下ろす。
それでも痛みは走り歯を食い縛る蛍の顔に、杏寿郎の凛々しい眉が僅かばかりに下がる。
「大丈夫」
告げる声に揺るぎはなかった。
静かに守るべき者を目にして、意を決する。
「杏…」
再び蛍が顔を上げた時、もうその視線を交わることはなかった。
ばさりと羽織を翻して、蛍から距離を取った杏寿郎が猗窩座を睨む。
「お前も頑固者だな、杏寿郎。あの女の顔を見なかったのか」
「…見たらなんだと言う」
「全て説明しないとわからないか? そんなぼろぼろの体で何が軽傷だと──」
「だったらなんだと言う」
呆れ顔で肩を竦めていた猗窩座の動きが、ぴたりと止まる。
「己の肉体のことなど己でわかる。体術を得意とするお前の指摘も、外れてるとは言わない」
一度収めた日輪刀を、再び手にする。
赤い刃が闇夜で月の形をなぞるように、鞘から姿を見せた。
「だが蛍のことを知った口で語るなと、最初に言ったはずだ。彼女の心をお前が決めるな」
誰よりも人間らしい心を持つ蛍のこと。
迷い、躓き、葛藤し、それでも不器用にでも前を向こうとする。
そんな心だからこそ、猗窩座の言葉でさえも揺らいでしまうことはある。